英語では慣用句があって:
If it’s worth doing, it’s worth doing well.
訳せばこの意味に近い:
やり甲斐があるなら、完成度高くやるべき。
しかし、この様な考え方は危ないです。それはなぜか、例で説明させてください。
運動の習慣がつけたいとしましょう。何度も運動の利益を耳にし続けてきたから、「一日でどのぐらい運動すればいい」と検索すればこう読む:
一般的な目標として、30分以上の適度な運動を目指しなさい。
そうさせるよう、通知を設定します。そして最初の何日は順調です。
しかしある日は凄く疲れ、30分の運動はできますまい。ストレッチを数分しかやる気がないのです。
運動にはやり甲斐があって、その文句を思い出しますが、そのための力が入らないのです。
そしてそんなに良くできないのならば、今日だけだと思いながら、サボります。
ですが、目標を達成することに失敗したから、やる気がもうなくて、やめてしまいます。
こういうのはあるあるではありませんか。私は気づかずやったことがあります。
問題は、文句の推薦する考え方にあります。
やり甲斐があるなら、完成度高くやるべき。
私達はそう聞き、こう思ってしまいます:
完成度高くやれないのなら、やらない方がいい。
つまり完璧でなければなりません。
私は別の考え方を好みます。
やり甲斐があるなら、完成度が高くなくてもやるべき。
或いは:
やり甲斐があるなら、少しでもやるべき。
先の例では、運動を抜くのではなく、やれるだけをやります。それは5分、3分、1分だとしても。
目標は「毎日ブログの投稿を書く」であれば、文章をいくつ書くか、せめて一文字でも、何もしないよりマシです。
この様な考え方はいいと思います。少しずつ進み続けることにより、「零の日」を避け、上と右への方向を辿るのです。📈